よびごえ日誌


2024.11.15 【2024】よびごえ日誌 vol.16
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1年B類音楽の石丸徳と申します。
今回私が初めてよびごえ日誌を執筆できることを大変嬉しく思います。
今回は春こんに向けて2曲目の「Nyon Nyon」(Jake Runestad)の稽古を致しました。私が初めてこの曲について小田さんから伺った際は、『きっとその可愛らしい題名に反してとんでもなく難解な曲に違いない』と確信しておりました。しかしながら譜読みを進めていく中で、この作品が見た目ほど難解な曲ではなく、むしろ明確な意図と方向性が窺える根源的な音楽であると感じるようになりました。
この作品においては「詩」という意味での歌詞は存在せず、その一つ一つの言葉は聴覚的な印象や音響的な効果が期待されて選ばれていると感じました。私が「Nyon Nyon」という音から感じた柔らかさも、この曲の素早く歯切れの良いテンポの中においては同一の発音を効果的に連続させる要素として働いてるのかもしれません。またこの作品は旋法的(H-ミクソリディア?)でありながら決して難解な和声が使用されている訳ではなく、むしろ主和音の保続と単純な和音交代によってある種のストレートさが表現されているように感じられます。そしてこの作品の大きな特徴として、詳細なデュナーミク指示と執拗な同型反復が挙げられます。この作品におけるデュナーミクの変化が与える音響的効果への影響は極めて大きく、合唱を1つの生命体のように活き活きとさせる作用が強くあるように感じられます。
上記のように申し上げましたが私はまだこの作品に触れ始めたばかりで、まだ消化どころか噛みきれてすらいないと感じています。これからの稽古の中でこの曲について皆さんと意見を交していけたら良いと考えています。
 
 
今回の稽古を通して議論になった点を箇条書きで下記の通りにまとめておきます。
・「Nyon」の母音の発音を「o」寄りにするか「a」寄りにするか。
・足踏み部分をどのように発音するか(本番の靴、舞台と併せて考えたい)。
・最後の1小節でブレスをするかどうか。
・最後の2小節間のテンポをどのようにするか。
・「ahh」ないしは「wahh」部分をどのように大きく発音するか(無声、h)。
・グリッサンドの開始点を記譜通りにするか遅らせるか。
 
 
さて、ここからは1曲目の「あい」(松下耕、谷川俊太郎)の話になります。
「愛という言葉に何を感じるか」という問いについて私なりの考えを述べたいと思います。
私は谷川俊太郎先生の詩の『愛 それは気持ちだけでもない(気持ちじゃない)』という部分に強い共感を抱きました。私にとって「愛」というのは感情的な部分以上に、むしろ例え感情と反していたとしても相手のために行動をしようとする「意思」あるいは「選択」のようなものであると考えています。よく結婚式などで『健やかなる時も病める時も愛すると誓いますか?』という文言を耳にします。結婚後に夫婦のお互いへの熱が冷めてしまうというのはよくある話ですが、相手を大切に扱う行動の根拠が自らの感情にのみある状態は「愛」としてあまりにも脆弱ではないかと感じてしまいます。私にとって結婚式の例の文言は「例えお互いへの熱が冷めてしまったとしても、夫婦として相手を大切にする選択をし続けると誓いますか?」と解釈でき、感情のみによらない普遍的な行動指針を持つことを期待しているようにも聞こえます。
ところで私はキリスト教を信仰しているクリスチャンなのですが、キリスト教においては聖書の中に『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』という言葉があります。そしてイエス・キリストは『むしろ自分の敵を愛しなさい』と説いています。私は敵対している人物を感情レベルで好きになることは難しいですが、それでも相手のために行動する選択と意思が「愛」であると考えています。もちろん「愛」に感情的な部分が存在していることを否定している意図はなく、そこに感情があるにしろ無いにしろ相手を尊重する行動の根拠を指す言葉として「愛」が解釈されても良いのではないかと考えました。
谷川俊太郎先生の詩では、「愛とは何か」という問いについて様々な可能性を挙げながら、ストレートな明言を避けているように感じられます。私の上記の主張も皆さんが「あい」という作品を解釈する視点の1つとして一緒に考えていただければ嬉しいです。

石丸徳