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22
August
2024

【2024】よびごえ日誌 vol.9 夏休み番外編

B類1年加藤優奈です。
初めてのよびごえ日誌は、某高校のコーラス部訪問を通して感じたことを書きたいと思います!(推定読了時間は 2 分です、お付き合いください笑)
私は中学、高校で合唱部に所属していました。純粋に歌うことを楽しんだ時期、大会の結果に一喜一憂した高校時代、多くの人や音楽との出会いを経て、「合唱」についてどこか俯瞰的に考えるようになった今日この頃です。今回訪問した高校のことは高校時代から存じ上げていたので、練習の様子を見学できることをとても楽しみにしていました。音楽的にも人間的にも大変素晴らしい活動に出会うことができ、とても刺激的な時間でした。はじめに、彼らの演奏自体の魅力については、私の言葉では表しがたいと感じたため省略いたします。
 
今回の訪問で印象的だったのは、すべての行動がシステム化されていたこと、多くの生徒さんが音楽についての高度な知識、技能を持っていること、それを言語化して仲間に伝える能力に長けていたことです。まず音楽室に案内されると、いくつかのホワイトボードや黒板が目に入ってきました。その日の練習計画が分単位で書かれたもの、各パートの課題と目標が書かれたもの、歌詞解釈のメモがされたもの等がありました。あらゆる事項を可視化することで、指示を待たず、各々が今するべきことに注力できる…なんと合理的でハイレベルな空間なんだ!!と衝撃を受けました。ほかにも、部員の出欠確認、通し練習の録音と再生、事務連絡といったあらゆることを、生徒さんが分担して確実に行う姿がありました。まさに社会の縮図ではないでしょうか。指導者の裁量で「高校生はこれだけしていればよい」と決めつけてしまうことはあまりにもったいない…小田さんが以前おっしゃっていたお話を思い出しました。
 
また、隙間時間に筋トレをする男子生徒さん、先輩にアドバイスを求める生徒さん、廊下で発声練習をする生徒さんなど、各々が自主的に練習に取り組んでいました。そして音楽的な知識と技能を持つ生徒さんが非常に多いです。さすが強豪校です。ロングトーンのコツや表情と響きの関係、子音の立て方などに言及する姿は、既に立派な指導者だと思いました。
 
彼らを見ながら、もし自分がこうした集団の指導者になったら…と考えていました(なんとおこがましい)。私は、角が立たない物言いにするために回りくどい表現をしてしまうのですが、頭の切れる生徒さんにそうする必要はないのです。「いい音楽をする」という揺らがない共通目標があり、その達成に向けた「根拠のある端的な指導」を求めているように感じました。なんだか冷たい書き方をしましたが、決して薄情な方々ではありません。差し入れのお菓子に歓声をあげる場面や、本番前の緊張を共有する時間は、人間味あふれるひとコマでした。楽譜の山のとなりに置かれた数学の問題集(と赤本)を見て、部活と勉強の両立を高いレベルで目指しておられる某高校のカラーがうかがえました。先生は、彼らが音楽だけに生きてはいないことをご存じのうえで、高校生活に合唱という彩りを添え、生徒さんを精神的に支えていらっしゃる存在だと思いました。たった 3 時間見学しただけの私が述べるのは恐縮ですが、以上が部活動や指導について考えたことです。
 
 
音楽的なことについては、先生の「男声も女声も(男性、女性?)、同じからだなんだから、一緒に教えてもらえばいいじゃない」というお言葉が特に印象的でした。音楽、こと声楽は性差を感じやすい活動だなと思っていましたが、それを過度に意識する必要はないと学びました。小田さんのおっしゃる、声楽は性別を問わず、身体をあけて息を流すだけの営みであるのだ、というお話をリアルに感じました。ぶっちゃけた話、私は男性を羨ましいと思うことがあります。女性でテノール歌手の方は稀有な存在ですが、カウンターテナーの方は何人もいらっしゃる(≒女声の音域の指導を実践的に行える)ことからも、男性のほうが混声合唱の指導に向いているのではないか、と思ったこともありました。しかしよびごえでの活動を通して、合唱指導には実践だけでなく理論も必要なのだという、当たり前のことに気づかされています。私は男性の声を出すことはできませんが、発声の仕組みを学ぶことはできます(そもそも声は一人ずつ違いますから、女性なら、ソプラノなら理
解できるはずだと思い込むこと自体が危険なのかも?と書いていて思いました)。これから様々な理論を学び、それを言語化する力を身につけていきたいです。
 
最後に、指導者にとって最も大切なことは性別や年齢ではなく、人間性なのだと感じました。後日行われたコンクール本番を見に行き、某高校の演奏を聴いてきました。我々は本番直前期にお邪魔したのですが、その日の通し練習では先生からも生徒さんからもいくつかの指摘がありました。帰り道に小林さんもおっしゃっていましたが、先生に対しても意見を言える雰囲気、それを受け入れてくれる先生のあたたかさが、あの一体感を生んでいるように思えます。そして本番、相変わらず素晴らしい演奏を披露されました。以下は私の主観ですが、あの時指摘があった諸々の課題が改善されており、本番直前まで成長し続けているチームなんだなぁと心にくるものがありました。指揮を振る先生の腕は、大きくは動いていませんでした。指揮者と歌い手の間にある確かな信頼関係によって、あの音楽は生まれているのだと思いました。先生に心からの敬意を表します。
 
小田さん、某コーラス部の先生と生徒さん、この度は素晴らしい機会をありがとうございました。そして 4 人の先輩方と一緒に、東京から某都市へのプチ旅行に行けたことを嬉しく思います。ここに記しきれなかった学びも多くあります。
1年前、受験勉強の合間によびごえ日誌を読んでいた私は、こんな経験ができるなんて思ってもいませんでした。今本当に楽しくて幸せです!秋学期もどうぞよろしくお願いいたします。 加藤優奈…
20
August
2024

【2024】よびごえ日誌 vol.8 夏休み番外編

みなさん、こんにちは。小田です。
昨日の勉強会に参加された皆さん、本当にお疲れさまでした!音源はまた後日もらえるものでしょうか?勉強会そのものの企画・運営をくださった室伏さん、小林さんをはじめ、参加団体の皆様等、すべてのみなさんに、感謝しています。こうした機会をつくってくださったこと、本当にありがとうございました。
 
さて、今日は、よびごえ初の試みとして、東京を飛び出し、とある高校のコーラス部さんの練習を見学させていただきました。今回のよびごえ日誌では、そのことについて綴ろうと思います。長くなると思いますが、僕の記録のためにも、感じたこと、考えたことの一部分を書き残したいと思います。
 
昨日、一足先に高校さんにお伺いし、稽古を見させていただきました。最初に目にしたのは、部活が始まる前に筋トレをしていたり(僕が見たのは腹筋)、楽譜を見ながら確認している姿だったり、小さなキーボードを持って1人1人が発声練習をしている様子でした。音楽室のこの感じ、「なつかしい!」というのが真っ先にありました。ノスタルジックな書き方をしたいわけではありませんが、高校生の頃、僕は一日中合唱について考えていたと言っても過言ではないくらいに、合唱が大好きで、授業中も、内容に不安が少ない教科については、「今日のパート練で何やろうかな」「あそこが歌えてないからもう少しこうしたいんだけど、どうやったら声が変わるんだろうか」と、そんなことを考えながら、窓の外を眺めていたことを思いだします。部活後の音楽室も好きで、男声でパート練をしていると「はよ帰らんかい~」と言われて帰っていたのを覚えています。大学にいると忘れがちな、現場の「匂い」とでも言いましょうか。大学の講義や教科書、論文には無いリアルです。
発声練習は、その流れが身体に染み込んでいるスムーズさで、無駄がなく、発声練習後は、ペアになっていた先輩が後輩に助言をするという、「教える」活動が組み込まれていました。「教える」ことには、知識も技能も求められますし、その人の言うことを聞こうという信頼関係も求められます。とりわけ、パート練を引っ張っている生徒さんは、声楽のアカデミックな用語をかなりご存じでいること、また自身の声について、課題と改善を明確に言語化できているのが印象的でした。
「響きを高く」「落とさない」、これは先生が繰り返しおっしゃっていた言葉です。とにかく生徒一人一人がより良い発声を目指しているし、その意識が徹底されていることが、なによりも素晴らしいと思いました。2日間の見学を通して、「より良い発声を追究し、声を使いこなすことが部員の仕事」、「より良い声と音楽を導き、モチベーションや心を支えることが先生の仕事」、それぞれが良い仕事をしたいと高みを目指している、そんな会社のようにも感じました。
 
僕にとって、今回訪問させていただいた高校さんは、特別な思いがある高校さんでした。高校生の時から、今に至るまで、18年くらい、ずっと頭にあり、録音や映像で拝見していました。高校の頃は、電車で40分くらいかけて通学していたのですが、MD、それからMP3プレーヤーなるものが流行っておりまして、合唱曲だけのMDや、MP3プレーヤーのリストを作って、その高校さんの演奏を、毎日、何回も何回も繰り返し聴いていました。
「やっぱり生は違う」。そんな当たり前のことですが、言葉では足りないほどの大きな感動がありました。思い出補正もあったのかもしれませんが、音楽室に響いていた音楽は、決してコンクールのための音楽でない、誰かの心に届けるための音楽だと感じましたし、大きな愛のある音楽でした。
 
さて、部活動の始めから終わりまでの流れについても、勉強になるものがありました。体操は無く、早速に➀発声が始まり、➁パート練からの➂全体練、コンクール間近ということもあってか➃録音通しからの➄返し練、⑥事務連絡等を済ませたら、最後は⑦自主練時間があって解散というものでした。
個人的な注目は、体操が無いことと、最後に自主練時間が予め組み込まれていることでした。体操は、多くの学校で形骸化しやすく、また運動部の筋トレや、体育の授業の準備運動をそのまま持ってきているような学校もあるため、生徒の中で、体操をやることと歌が上手くなることとがどのように関係しているのかを実感しづらいという点で、取り扱いが難しい活動だと感じています。その点で、どんな体操をしているのかな、と気になってはいたのですが、まさか、無かったので、「合理的!」と僕の中ですっと理解ができました。別に、体操があろうがなかろうが、ちゃんと中身の濃い活動していればいいんだ、というように捉えました。
最後の自主練の時間は、きっと、その日の学びを自分の力で整理したり、発展させるために設けられていたんだと、推測しています。そう考えると教育学的にはとても合理的です(学びの定着)。「今日もやりきった!終わった~」ではなく、「今日言われたことを整理して帰ろう 分かんなかったら先輩や先生もいるから聞いて、分かるように/できるようになってから帰ろう」、そうしてまた次の部活の前に自分一人で復習して、発声➡パート練➡全体練をして、また一人で整理、発展させる・・・こうしたサイクルは、非常に勉強になりました。大学生でこれをやろうとすると、「活動終わったからかーえろっ」となってしまうような気もしますが、よびごえのみなさん、後期の活動から試してみるのはどうですか…?
 
自主練の時間が終わっても、先生に質問をしていたり、次の部活に向けて打合せをする姿もあったり、音楽室が閉まっても、廊下でその日の指摘事項を一緒に声を出しながら確認していたり……、ずっとどこかで歌声が聴こえ、真剣さと穏やかさの入り交じった空間でした。
 
ここに書ききれないのは、あの、圧倒的な「響き」でしょう。
練習を見させていただきながら、春こんの時に、ほぼ毎年僕が「いま何割ぐらいで歌ってる?8割か9割にして」と言っていることを思い出していました。「ここは音量記号はピアノだけど、和音を鳴らさなきゃ」「もっとしっかり出して」と先生がおっしゃっていたことも、「そうなんだよな、息が流れて声量がある程度ないと、和音って鳴らないんだよな」と、共感していました。完全音程をしっかり決めたり、子音や母音のトーンをそろえることで和音が鳴る土台(準備)ができていれば、あとは声が正しいポジションに入れば、和音は一気に鳴り始めます。それが曲のエネルギー(legato)と重なると「音圧」という、ビリビリ、というものを体感できるまでに空気が鳴り始めます。よびごえのみなさんも、「音圧」のある合唱を、毎年春こんでは経験できていると思いますが、「もっとできる」、そう思いました。少人数でも鳴らすことはできるので、ここは僕の宿題でもありますし、みなさんと一緒に、もっと合唱の可能性を探してみたいポイントでもあると思いました。
 
 
 
ここで私たちが一緒に考えたいのは、「教師に求められる力とは何か」、ということです。
今回は、先生ご自身が声楽についての高度な知識・技能をお持ちでいらっしゃり、男声女声問わず、「人体の構造」という共通点から、発声をご指導されていました。僕個人の経験として、声楽は極論、男女問わず「身体をあけて息を流すだけだ」と習ったこともありますが、細かいことはさておき、つまりはそういうことなんだと思います。息の方向や、頭の中での母音のポジションのイメージを間違えると、声は平べったくなり、響きもきつくなりますが、十分に息を吸い、吸った通りの道を通って息が流れ出て、その道沿いに母音を置き、目の方向へ、それから前へと、どんどん息と母音が流れていけば、声は柔らかく、頭蓋骨全体がまろやかに響きますし、それは男声も女声も違うことはありません。そんなことを、ものすごくシンプルに、実演とともに要点をおさえてご説明されている先生のお姿から学ぶことはものすごく大きかったです。
こうして書くのは簡単ですが、これについて、それができるようになるまでにどういった困難さが起こりやすいのか、ということを予測して、それら1つ1つへの対処法をカードとして持っていくことが、まずは教師の力と言えますね。例えば、「なかなか声が前に出ないとき」「声のポジションが低くこもっているとき」「あごや舌の力が抜けないとき」「高音における息のスピードが遅いとき」「一番低いバスの低音が散ってまとまらないとき」にどんな手立てをもって関われるか、みなさんだったらどう指導するでしょう(これらはこの2日間で実際に相談を受けたものでした)。短時間で解決できるようなものはさくっと直してしまうのがベストですが、なかには筋力が必要なものや、感覚の洗練が必要なためにどうしても時間がかかるものもあります。その場合は、できるようになるまで介入し続ける必要があります。重要なこととして、小学生だとしても、高校生だとしても、声に関わる以上、健康に問題を起こしてはいけません。「声とその学びに関する正しい知識と判断力」が、教師には求められています。
教師の力は、そうした声に関する知識や技能だけではなく、作品の解釈やそれを伝える指導力、また生徒の目線で相談しやすく、受け止めてくれるような包容力もあるのではないかと思います。知識や技能を超えて、人間性までをも言い始めると、人それぞれという議論に陥りやすいですが、しかし、結局は、人となりこそがその場の雰囲気のベースとなることは否定できないのではないでしょうか。加えて、知識や技能に基づく的確な指導と、コンクール等における外部評価も総合して、教師と生徒との間に確かな信頼が構築されていくのではないかと思います。このような人となりや信頼の構築も、教師の力として捉えておきたいです。
 
よびごえのみなさんが、大学生のうちにできることは、まずは「発声に関する確かな知識と技能を学ぶこと」、そして「1曲でも多く、様々な合唱曲をしっかりと勉強・演奏すること」だと思います。それは声楽が専攻であるかどうかを抜きにして考える必要があります。なぜなら、これからみなさんが未来に出会うであろう児童・生徒からすると、みなさんが何専攻だろうが関係ないからです。先生は先生なのです。
 
最後になりますが、この日誌を書いている僕が、いま強く感じていることは「責任」です。冗談でなく、いつかこの先、「昔の人は部活で合唱やってたらしいよ」という時代がやってくるのではないかと危惧しています。そもそもの日本国の人口減少問題もありますが、おそらくコロナや部活動の地域移行の影響を大きく受けた合唱人口の減少があり、1980年代ごろから今日に至るまで、合唱界は、大規模から中規模、小規模へと、どんどん縮小してきた歩みがあります。コンクールの是非が議論としてあるのはいったん横に置いたとして、コンクールが成り立たないほどに日本国における合唱分野の縮小が起きたとき、そのあとは急速に合唱分野はかつての活気を失っていくことになろうと思います。そんな未来が来ないと良いなと思いますが、30年後(2054年)、というリアルな数字もざっくりと頭には浮かんでいます(よびごえのメンバーは、まだ現役で働いているはずですね)。
そこで考えなければいけないのは、「合唱は生徒の何を育てていたのか」という、合唱の教育としての価値(意義)なのだと思います。合唱という活動の価値を整理し、説明・説得できなければ、守る必要のない活動になるため、社会の流れに従って、自然消滅することになるでしょう。
今回訪問をお許しくださった高校の生徒さんを見ると、合唱をしたからこそ開発された知識や技能、態度は、非常に多くあったのではないかと考えています。それが、将来どのように活かされ、接続されるのかということはいったん横に置いて考えるのが良いと思いますが(なぜなら来るべき将来で求められる力は常に変化しているから)、「合唱を通して何が育ったのか」、この問いを持ちながら、今日の見学を振り返ってもらった時、みなさんの頭には何が思い浮かぶのでしょうか。またぜひ教えてください。 東京学芸大学で学んだみなさんが、これからの日本国の合唱と教育の最先端に立ち、全国の児童・生徒と、価値ある合唱活動をしていってほしい、そうしたみなさんの学びを支え、応援することが僕の仕事ですし、責任でもあると思っています。これは、とてもとても重い仕事ですが、これからの日本国の合唱と教育を考えたときに、ものすごく大切な仕事だと思っています。
そんなことを言いつつも、どうか引き続き、気を張らずにのびのびと合唱と教育を学んでいってもらえればと思いますが、「合唱を通して人を育てること」を、みなさんとの実践を通して、もっと一緒に考えていけると嬉しいなと思っています。
 
今日一日、本当にお疲れさまでした。
また後期に元気にお会いしましょう! 小田直弥…
02
November
2023

【2023】よびごえ日誌 vol.9 今年も春こんが始まります

みなさん、こんにちは。小田です。
この前始まったかと思う夏休みも、あっという間に終わり、後期が始まりました。
 
後期の活動としては、春こんでの発表に向けて、2つの合唱作品をみんなで時間をかけて学んでいきたいと思っています。
稽古の様子は次回以降のよびごえ日誌に譲ることとして、今回は、自由曲候補には挙がったけれども、取り上げなかった作品を紹介したいと思います。
 
みなさんが将来、より良い合唱活動を実施できるようになるためには、たくさんの作品を知っておくことも大切に思います。以下、ご存知の作品もあるかもしれませんが、どれも素敵な作品ですため、これを機に聴いてみてもらえると嬉しいです。
そして、この曲だったら一緒に合唱をする仲間と①どんなことに新しく気づくことができそうか、②なにができるようになるか、③これから先の音楽学習を考えたときにどのような役割を果たすか、ということについても考えてみてもらえると、さらに、実用的な学びになろうと思います(作品の教材可能性)。例えば外国の宗教作品であれば、①その宗教ならではの考え方や言葉、ユニークな音響の美しさに気づきがあったり、②純正律の響きを求めて、4度や5度、8度の響きをきれいに響かせることができるようになるかもしれませんし、③そうした学びは、日本の作品を取り扱うときにも4度や5度、8度の響きを意識するきっかけになるかもしれませんね。日本の民謡をモティーフとする作品だったらばどうでしょうか、歴史的な問題を扱った作品だったらばどうでしょうか…、さまざまに考えてみてください😊
 
◆『合唱のためのコンポジションⅠ』(曲:間宮芳生)
日本の合唱界では、新しい作品が演奏される傾向があります。新しいというのは、例えば委嘱作品もそうですが、ご健在の作曲家の作品を指しています。例えば今年のNコンでは高田三郎(1913-2000)の作品を取り扱った学校もありましたが、比較的珍しいように思います。
よびごえのみなさんとの「学び」という観点で考えると、合唱界に携わっていると自然に接することの多い作曲家よりも、間宮芳生を含む、すでにレジェンドになっている中田喜直、武満徹、三善晃といった、過去の一時代をリードした作曲家の作品についてともに学び、今日のコンテキストで捉え直すことは重要な学びなのではないかと考えて、この作品を思いつきました。
『合唱のためのコンポジション』は間宮 芳生(まみや みちお)のライフワークと言って良いと思いますが、その最初の作品はみなさんにはどう聴こえるのでしょうか。僕はこの作品を中学1年生の時に初めて聴いて、中学3年間、ずーっと頭から離れずにおりました。中学生当時の僕には、よく分からないけれども、なんだかすごくかっこいい曲だと感じたのを覚えています。
 

 

 
◆”Cries of London”(曲:Luciano Berio)
1974年に書かれたこの作品は、まもなく50年を経とうとしている今日においても古さを全く感じさせない、緊張感のあるサウンドが特徴です。よびごえメンバーであれば、こうした作品にも取り組めると思いましたが、現代音楽の特徴である著作権の関係で楽譜代が高く、今回はそれを1つの理由として、候補に留まることとなりました……。
 

 

 
◆Mama Afrika(曲:Sydney Guillaume)
ハイチ出身の作曲家による、ハイチそしてアフリカに焦点を当てた作品です。小田はまたこういう曲にすぐ飛びつく…と思われそうですが、たしかに自分でも、こうした、日本以外の、世界や人々の歴史に目を向けられるような作品が好きなのはあるのかもしれません。
コロンブスの航海についてはみなさんご存知に思いますが、さて、コロンブスによって新大陸が発見されたことは、その後の現地人の未来にどのような影響を与えたのでしょう。ハイチは、コロンブスによって発見されたことで、先住民(タイノ人)は絶滅させられ、西アフリカの黒人は、奴隷としてハイチに強制的に連れてこられ、労働を強いられました。
ハイチの歴史はアフリカの黒人たちの歴史でもあり、そしてアフリカは人間の誕生の場所ともいわれる(と作曲家は捉えている)、こうしたテーマを持つこの曲は、よびごえのみなさんとともに学ぶ価値のある、大変に魅力的な作品に思えました。しかし、打楽器が必要なため、春こんでは演奏不可でした…。
 

 
◆『唱歌』より第3楽章(曲:千原英喜)
間宮の『合唱のためのコンポジション』と似た発想の作品ですが、千原の特徴ともいえる、甘美な旋律が含まれている点で、間宮に比べて多分に今日的です。僕もこの曲を歌ったことがありますが、なんとも不思議な作品で、各パートのかけあいにかっこよさを感じたことを覚えています。テキストは トテシャン チリリン など、口三味線の言葉で構成されています。
 

 
◆I Will Lift Mine Eyes(曲:Jake Runestad)
Eric Whitacreというアメリカの作曲家がいるのですが、彼の作品を初めて聴いたとき、とてもびっくりしたのを覚えています。日本では”Sleep”(https://youtu.be/aynHSTsYcUo?si=U8Vg6NEbDnTZe8bP)や”Leonardo Dreams of His Flying…
02
October
2022

【2022】よびごえ日誌 合唱祭辞退と夏休みインライ編📷

今年度、よびごえの夏休みの活動は、1.2年生チームと、3年生チームに分かれて実施しました。
 
今年度の夏休みの活動の背景には、よびごえ結成以降、途絶えることなく出場していた東京都合唱祭への出場ができなくなったことがあります。今年もたくさんの新しいメンバーがよびごえの活動に加わってくださり、団としても声が新しくなったので、合唱祭では自分たちで合唱を創る活動を楽しめる曲、これからの合唱活動の基盤となる「音楽」を考えられるような曲と願いを込めて、King Gnuの「白日」の合唱編曲版、K. Bikkembergs作曲の「Salve Regina」を演奏予定でした。
 
白日とSalve Reginaと聞くと、「え、ほぼ真逆の曲やん」と思われるかもしれません。その通りです。
でも、実はこの2曲、いずれも混声3部合唱の作品であるからこそ選んだという理由もあります。
音楽作品の類似もしくは相違を見ようとするとき、例えばポップスや宗教曲といった「ジャンル」の視点や、混声3部合唱や同声2部合唱など「編成」という視点からも見ることができます。今回の2曲はジャンルという視点から見たときには相違が認められますが、編成という別の視点からみると類似が認められるという位置にあります。今回の2作品は、この2作品の組み合わせだからこそこうした複雑さをもつわけで、「え、ほぼ真逆の曲やん」と最初に思った方がいれば、合唱祭の本番が終わるころには「あ~この2曲はたしかにこういう視点から見ると全然違うけど、こういう視点から見てると似てるよね~」と、作品間の複雑性を実感をベースに当たり前に語れるように変化してくれたら、それは俗に「成長」という言葉に当てはめてもよいのかな、と思っていました。
 
もちろん、そんな概念的なことを学びと限定せずとも、ポップスを合唱として演奏することの難しさを肌で感じ、どうすれば解決できるのかという解決学習の意図もありました。音楽の仕上げ方という意味では普通の合唱作品のように詩からのアプローチではなく、音そのものの「ノリ」(みなさんの口からもたくさん出てきましたね)やビート感など、そういった方法でのアプローチも有効であることを共有できました(音楽言語からのアプローチ)。一方で宗教作品を扱うときには、やはり言葉の壁はあると思いますが、今日の主流な合唱指導のスタイルである詩からのアプローチを共に学ぶ時間にできたように思います。単語のアクセントや単語と単語がつながるときはどの言葉が大事なのかという、単語のもつアクセントと、文章としてのアクセントの違いから音楽をつくっていけるというアプローチも行いましたし、言葉の意味論からせめる場合は、やはりキリスト教に視点を向け、その世界を前提として、マリアとはどういった存在なのか、そういったマリアに対し私(作品の中での私)はどう思っているのか、ではそういう思いはどういう声で歌われるべきなのか、では具体的な歌唱としてはどういう技を使って歌うのか(ここにフォルテやピアノ、暗い声、明るい声が位置づいてきますね)、というふうに進めていくことができました。このアプローチの根幹は、指導者主導ではなく、指導者はファシリテーターになっているというところにあると思います。僕からは情報と問いを投げかけ、実際にマリアがどういった存在なのか、作品中の私であればマリアに対しどういう感情を感じるのか、それはみなさんに委ねました。
 
そんな音楽言語的アプローチや詩からのアプローチなど学びの仕掛けを準備していたということと、みなさんもきっと、稽古の中でたくさんのことを感じ、考えてくれたこの2曲を合唱祭で発表できなかったことに残念な思いもあったと思います。一方で、しょうがないことでくよくよしても前には進めないので、みなさんで挽回の機を考えてもらった結果、1.2年生から出てきたアイデアが「インスタライヴ」(インライ)でした。
 
よびごえ初のインライは、以下にて開催予定です。
ちなみに明日のインライの曲はすべて混声3部です(1.2年生の作戦だったのでしょうか?)。編成としてはすべて同じ。だけどもジャンルも違えば、作品に与えられたテーマも違う。教育目的で書かれた作品とそうでない作品など、様々な視点を感じさせる曲たちから、演奏とナレーション(司会)を通してどれだけの合唱の広がりをお客さんと共有できるのか。僕も、みなさんのインライから合唱を楽しみたいと思います。
全力での真剣勝負、よい本番になりますように願っています。
 
Instagram Live!!
👉 yobigoe_tgu_chorus
👉 10月3日(月) 19時 スタート
👉 君とみた海(若松歓作詞作曲)
  白日(常田大希作詞作曲、田中和音編曲)
  With You Smile(水本誠作詞作曲、水本英美作詞、富澤裕作曲)
  Salve Regina(K. Bikkembergs作曲)
  虹(森山直太朗/御徒町凧作詞作曲、信長貴富編曲)
 

 

(司会の音量チェック中)
 
3年生の夏休みの活動は、勉強会を開催し、3年生は3年生での合唱を行っていました。
僕が忙しさを理由によびごえ日誌を更新できていないという怠慢でしかないのですが、時間を見つけてアップしますので、3年生の皆さん、ご容赦ください…。 小田直弥…
11
June
2021

【2021】よびごえ日誌 小田より

みなさん、こんにちは。小田です。
2021年度、初めての投稿が6月になってしまったこと、
例年のよびごえ日誌を思うと、とても遅いようですが、
一方で、この記事の裏側で、よびごえメンバーがどれほどの思いで
学びを継続しようと努力していることか、想像いただけることと思います。
 
さて、新年度を迎えたこともあり、いくつか
合唱団よびごえで合唱を学ぶということについて、
参考になりそうなことをメモをしておきたいと思います。
 
1.大学に入るまでに経験してきた様々な合唱
大人数で声を合わせて歌うということを合唱という場合、
学校は合唱をする機会が比較的多いように思います。
それは、例えば英語の時間以外で英語を使うことと
音楽の時間以外で音楽をすることを比較しても分かりやすいかもしれません。
行事のたびに校歌を歌うかもしれませんし、
「朝の歌」というものを設定している学校では
月によって歌をかえながらも、みんなで歌うと思います。
音楽集会や校内合唱コンクールに視点をよせると、
それは合唱することに重きを置いたイベントのようにも思います。
さらには、クラブ活動や部活動として、合唱に没頭することもできます。
 
授業としての合唱のみでなく、行事としての合唱、特別活動としての合唱、
こうした様々な合唱体験を経て、いま、私たちは大学で音楽を専攻しているのだということを
今一度認識しておくのは有益だと思います。
 
2.合唱の教育的成果を左右する要因を探すために
教員を目指す・目指さないを別として、
今日的に、合唱をテーマとした研究で何が言われているのか
その一端を知っておくことに損はないと思います。
 
研究論文や研究報告をいくつか眺めてみると、
合唱団という組織そのものの効用として、
合唱団の存在によって、所属団員と地域の人が繋がることができる
というものがあげられていたり(「地域における児童合唱団の機能と役割」, 2020年)、
合唱活動についての効用としては、
合唱活動を通して得られたあらゆる人とのつながりが醸成され、
それによって参加者自身がコミュニティへの帰属意識を高め、
さらには精神的健康への影響が考えられること、
また、そうした土台の上で情操の豊かさや身体的健康、well-beingへと
繋がっていく可能性が言われています
(Benefits of choral…
04
March
2021

【2020】よびごえ日誌 メッセージ(國元)


長らくうちに置いてあった合唱団よびごえの看板を、本日返納してきました。よびごえのメンバーとして合唱することももうないのかと、何とも言えぬ喪失感のようなものを感じています。だけど、人とかモノって終わりがあるからこそありがたみや大切さが身に染みてわかるものですよね。4年前何となく入ったよびごえをこんな思いで卒業するとは、当時の私には想像もつかないだろうと思います。よびごえは、ただの歌がうまい人たちの集まりではありません。ここでの合唱は、ただ単に歌うことを楽しむとかいう次元ではなく、音楽は思考や感情を伴う学問であり、音楽を前に圧倒的敗北を味わい、盛大に悩みながら少しずつ答えらしきものが出てくる、という何ともヘビーでハードなものでした。合唱ってこんなにも頭を回転させなければならないのかと、しかしそれがめちゃくちゃ楽しかったりもするんですね。ゴールが遠くに見えていたり、なんか頑張ればできそうなことって、私は少しつまらないと感じます。だけどよびごえは、私では到底太刀打ちできない世界が広がっていて、自分の非力さを感じるけれど同時にとてもワクワクするような、そんな不思議な場所でした。無知すぎる自分に幻滅したり、こんなの考えても分かるはずがないと放り投げたくなったり、自分が小さすぎることがわかった時、あぁ自分では敵わないなと敗北を確信した時、そこで初めて答えが見えてきたり本当の楽しさとか面白さがわかってくるのだと思います。そんな場を提供してもらった私は、同じような場を今度は子どもたちに提供しなければなりません。よびごえで合唱をやってきた者として、これから教育現場に出る私には日本の合唱教育を支えていく使命があります。技術とか選曲とか練習方法諸々、学校の音楽の授業だからと妥協するのではなく、わからない苦しさもできない無力さもすべて面白いと思わせられるような、合唱の本当の価値を提供できるような、そんな音楽教師になりたいです、なります。よびごえで学んだこと、めちゃ歌がうまくて頭の良い尊敬する先輩同期後輩と一緒に歌ったこと、小田さんの想い、全部、宝物です。本当に、素敵な場所でした。この大学に入って、皆に出会えて、小田さんに出会えて、幸せです。ありがとうございました。 國元…
05
April
2020

【2020】よびごえ日誌 号外

みなさん、2020年度がやってきました。100年に一度の非常事態の真っ只中、いま日本中に蔓延している不安は、少しでも傍で咳をする人がいれば距離を取り、いつも十分にあるはずの商品があと少ししかないと「とりあえず買っておこう」という発想を生むなど、普段の私ではない”特殊な私”を増殖させているように思います。”特殊な私”は冷静な判断を鈍らせたり、視野を狭くし、利己主義の発想を誘導したりと、どんどん自分自身を社会と切り離し、孤立へと向かっていく性質があるのかもしれません。僕が怖いと思っているのは、今の自分が自分でも気づかないうちに”特殊な私”になってしまっていて、無意識にそのような行動をとってしまうことです。クレヨンしんちゃんに出てくる上尾先生のように、眼鏡の着脱のような明確なスイッチがあるわけではないのです。自分のことは自分でしっかりと見つめること。そして、こういうときこそ身の周りの人に優しくあってほしいと思います。
 
さて、よびごえの活動がいつ再開できるのか、先行きは見えないのですが、せっかくなので僕の中学・高校時代を振り返りながら、よびごえのみなさんには合唱について考えを深めて頂けるような「探究テーマ」(宿題)を提供できればと思います。
 
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僕が最初に合唱に出会ったのは全くの偶然でした。小学校の時から音楽集会や卒業式、授業中も音楽の先生に代わって伴奏を弾いていた記憶すらありますが、あらゆる場面でピアノを弾いていたことが中学校の先生にも引き継がれ、中学1年の終わりの頃、音楽の先生から「Nコンの伴奏をしてみない?」と言われました。もちろん引き受けました。当時の楽譜がこれです。(平成17年度中学校の部課題曲「花と一緒」)
 

 
今見ると、間違った解釈の箇所もありますが、ただこれを見る限り、少年なりにのびのびと楽譜を勉強し、また既に細かい少年だったのだと思います。この曲の伴奏について明確に覚えているのは、歌の最後の切りとピアノの切りを同時にするのではなく、ピアノのペダルをほんの少しだけ残すことで、空間をふわっと仕上げようということにこだわっていたことです。また、歌の旋律とピアノの旋律が会話するようにしたいというメモもあり、ここでも歌とピアノが互いの役割を果たしあうことで得られる効果を期待していたとも思われます。この翌年は「虹」が課題曲で、その時には歌とピアノが会場でどのように混ざるかという意味でのバランスにもこだわっていたので、この頃から、なにか伴奏へのこだわりが芽生え始めたとも言えると思います。
(探究テーマ「1.合唱の伴奏のあり方」)
 
実際に歌い手として合唱を始めたのも、初めてNコンの伴奏をした年でした。きっかけは、Nコンの自由曲がアカペラだったことです。もちろん先生にはこう言われます。「課題曲を弾いた後、自由曲は歌わない?」この時、実はものすごく悩みました。なぜならば、歌が苦手だと自負していたからです。ただ、中学1年の校内合唱コンクールにて、合唱部が当時のNコン課題曲だった「信じる」と、自由曲「合唱のためのコンポジションⅠ」(間宮芳生作曲)を歌っていたのを思い出して、それがやたらとかっこよかったのです。当時の自由曲は「五木の子守唄」「おてもやん」(若松正司編曲)で、この作品はどちらかと言えば「合唱のためのコンポジションⅠ」のような現代的な作曲手法が一部採用されており、掛け声の多用や、各パートがハンドベルのように重なっていくなど、作品自体の面白さがありました。その翌年は課題曲が「虹」に対して、自由曲は「44わのべにすずめ」(木下牧子作曲)でした。この頃にはハーモニーが決まったことによる快感はすでに覚えていて、さらに心に刺さった合唱作品の楽譜を収集し始めていました。
(探究テーマ「2.歌うことが好きになるヒントはどこにあるのか?」)
 
 こうして、みるみるうちに合唱の楽しさに気づいていった僕でしたが、ある時こんなことを思いました。それは、「この曲すごい!」と直感的な感動を覚えるけれども、なぜ「すごい!」と思ったのか分からない、ということに気づいたのです。中学3年生の僕は、「なにか僕がこの曲を好きな理由があるはずだ!」と思い至り、当時もっともはまっていた曲の楽譜を買ってもらい、分析してみることにしました。それが、鈴木輝昭作曲の『ひみつ』から「うそ」でした。(特にこの最後の小節が、不思議で不思議でしょうがなかったのです。)
 

 
当時はもちろん楽典も知らないわけなので、そもそもどうすれば分析できるのか(一定のルールに従ってすべての音を調査できるのか)、その方法を開発するところから始めました。その時の僕の方法は、ピアノパートと合唱パートを頭から弾いていき、特に心に刺さった箇所をメモして、それらに法則性がないかと整理をしていきました。
僕はこの分析作業から多くのことを学びました。例えば、「半音でぶつかっている音も、1オクターブ、2オクターブと離れていくことで直接的な不快感を避けることができ、むしろ独特の美しさを持つこと」「歌のパートではフレーズの終わりで和声が解決していなくともそれにつながるピアノが和声を回収すること」「輝昭の用いる変拍子は日本語のリズムからすると全く当然の割り振りであって楽譜の見方を変えるととても読みやすい楽譜であること」「曲全体に不協和音がちりばめられているにもかかわらず最後の最後で最もシンプルな和声を長時間鳴らすことで異様な印象を覚えること」等。
(探究テーマ「3.私にとって魅力的だと思う作品の秘密はどこにあるのか?」)
  
こうして、我流の分析方法を手にした私は、中学校で配られる「コーラスフェスティバル」に載っている作品のうち、やはり好きな作品を分析したり、当時はやり始めた信長貴富の作品を分析したりしていました。分析をすればするほど、たまっていくのは「僕がその作品を好きだと思う理由」だけでなく、「こういうタイミングでこういう音を書けば感動するかもしれない」という作曲意欲でした。そうです、作曲を始めたのです。
「そうだ、作曲をしよう!」と思いたった僕は、当たり前のように合唱曲を書こうと思っていました。そのため、詩を探さなければいけなかったのですが、どういう経緯かは忘れてしまったのですが、選んだ詩は立原道造の「虹とひとと」でした。
詩を選んだから、「早速曲を書いてみよう!」と思い、ピアノに向かい、言葉のリズムを無視しないよう、混声四部でいきなり楽譜を書き始めたのですが、詩の一行分に音をつけるとアイデアがとまり、また一行分に音をつけると、次はその前のセクションと音楽的に繋がらないことに気づきました。ここで、とても大事なことに気づいたのです。それは、「詩の全体像を理解していないと作曲ができない!」ということでした。実は、これに気づくまで数週間はかかったと思います。どうして書き進められないのか、一行分につけた音は自分では満足していたのに、次の一行分の音と合わせると、一気に構成が崩れる気がしたのです。その曲は中学3年生を卒業するころに無理やり完成させて、いまではお蔵入りしていますが、それでもこの作業は僕にとても大きな学びを提供してくれました。
(探究テーマ「4.なぜ詩の全体像が分からないと作曲できないのか?」)
 
さて、ここまではまだ僕の中学時代しかお話していません。この時点で、相当、合唱や音楽そのもの、また詩にも踏み込んでいる僕ですが、これらの経験を持って、次は高校で合唱を続けることになります。
高校は、俗にいう合唱が強い学校でした。稽古方法も極めて効率的で、それでいて人懐っこい雰囲気のある、オン・オフのはっきりした部活でした。
 
僕の高校は、日本の現代作品を取り扱うことが多く、特殊な演奏法が出てくる作品は部員全員が「普通のこと」だと思っていました。「変拍子だから難しい」「演奏方法が分からないから難しい」といった声は一度も聞いたことがありませんでした。むしろ、特殊な演奏法を楽しんでいる雰囲気すらありました。例えば、『海の詩』(岩間芳樹作詩/廣瀬量平作曲)の「内なる怪魚 シーラカンス」では、水を入れたコップにストローを差し、息を吹き込んでぶくぶくさせる、ということが楽譜に指示されており、では誰がそのぶくぶく係をやるのか、ということでとても盛り上がりましたし、『氷河の馬』(大手拓次作詩/西村朗作曲)の「氷河の馬」では、男声が4部に分かれて裏声でクラスターをする箇所があるのですが、裏声ができないメンバーにとっては鍛錬でしかありませんでしたが、みんなで休憩時間に遊んだりすることで少しずつ楽しさへと変わっていきました。
(探究テーマ「5.一風変わった作品の要素をいかに合唱の喜びに繋げていけるのか?」)
 
合唱部の年間スケジュールはタイトで、1時間程度の新歓コンサートが新年度一発目で、そこから地域の合唱祭、全国総合文化祭全国大会、全日本とNHKコンクールの県大会、ブロック大会、あがよくば全国大会、そして合唱部の定期演奏会、アンサンブルコンテストが毎年のほぼマストで、それに慰問演奏や市のイベントでの出張演奏などが入ります。使いまわす曲もありますが、今思うととてつもない量の暗譜をして、1曲にかけられる稽古時間も2回の部活で本番というのもありました。新曲を読むときは、だいたい最初のパート練ですべて音を取り、2回目以降のパート練は解釈・表現にすべての時間を使っていました。
僕がパートリーダーになったとき、そんな強行スケジュールで鍛えられた「効率」は、今僕が持っている時間感覚にも大きく影響しています。1回のパート練習は50分程度。その間で複数の曲を練習しなければいけない。しかし新曲も音を取らなければいけない。となると、新曲の音取りをいかに効率的に終わらせ、各自がいったん認知した音を繰り返し反復させて自信を持たせてあげることができるか、全体の合わせになってもパニックにならずに同じことができるのか、そのためのパート練習をすることに特化しました。その結果、「あの空へ~青のジャンプ~」(石田衣良作詩/大島ミチル作曲)のような曲であれば、15分~20分で音取りが終了できていました。
では「どうやってパート練習の効率化を行ったのか」ということですが、大きくは2つのことを意識していました。
1つ目はパート練習がスムーズにいくような人間関係を築くことです。パートリーダーの言うことを素直に聞いてくれる環境はとても重要ですが、それは単純に厳しくすればいいわけではないのは皆さんご承知の通りですね。そして、高校といえば、ただでさえもいろんなイベントがあるわけです。体育祭や文化祭、定期考査、それに加えて家庭の事情もあります。この人の言うことだったら信じてみてもいいか、という関係を作るのは容易ではありませんし、キレやすい部員もいたり、人間関係のいざこざで部活に来れなくなりそうなのも僕にできる限り支えて、守ってあげなければいけません。みんなのことを第一に思っていることを感じてもらい、とにかく仲間を大事に、それでいて僕は本気でみんなと良い音楽をしたいことを伝え続けました。
2つ目は、稽古の緩急です。楽典が分かるわけでもない当時の僕たちは、いかに印象的に耳で覚えるかが重要でした。そのため、複雑な和声の箇所でも、シンプルな和声に置き換えて音を取ってみたり、「この音ってこの曲のここに似てない?もはやパクりじゃね?」などとたわごとを言うことで、過去の記憶を活用しながら新しい旋律にも親近感を覚えやすくなるような工夫をしていました。また、「早く音取りが終われば、今日のパートは全部休憩にしよう!」などと、エサで釣ることもありました。
僕のパートリーダー生活は、1時間目~6時間目までの通常授業の時に、いつもパートの仲間のことと、「今日はどうやってパート練習をしよう?」ということだけを考えていたと言っても過言ではありません。…