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20
May
2019

【2019】よびごえ日誌 vol.003

2019年度も本格的に稽古が進み始めました。
みなさんには申し訳ないながらも、私が稽古に参加できる日が少なく、ほとんどの稽古を団員が担ってくれています。
音が取れるようになること、全パートと合わせる中で自信をもって歌唱できるようになること、まずはこれらの目標に向けてどのような手順を使えばよいのか、一人一人が試行錯誤をしているのではないかと感じています。
 
今日の稽古は少しだけ顔を出すことができたため、伊藤さんが指導しているところから見学ができました。楽譜に書いてある音と、実際に鳴っている音を聴き比べながら丁寧に音を合わせていく稽古でした。1フレーズ歌い終わると、団員からは「ここの音が取れないんだよね…」「ここはこんな感じでいきますね」など、パート内で声が漏れ、全体の指導を受けていながらも、音楽が少しでも良くなるように自分たちでも工夫をし、1人1人が主体的な試行錯誤をする場となっていました。
 

 
私も少しだけ稽古に首を突っ込みましたが、そこではアカペラの曲に伴奏をつけて弾いてみたり、「この曲の良いところを5つ言ってみて!」とアルトに答えてもらったり、どうしてみんなはこの曲を柔らかく歌おうって思ったの?(どうして荒く歌ってはいけないのか)、と曲のイメージを生成するためのアクションや質問を重ねました。
 
どうしても常套的な合唱指導はまずテクニック面を音楽の本質から切り離して稽古し、ある程度安定してきたときに曲の解釈、表現の仕上げを行う傾向があります。これは1つの方法として確立されていますし、まずは正確に歌えないと本番上手に歌えないのではないか、という不安が残るがゆえに定評を得ているのではないかと、個人的には感じています。
 
三善晃は、自身が譜読みを行う際に、曲が何を言わんとしているのか、どんな音楽的な世界がそこに拡がっているのか、イメージを十分に形成したうえで、その世界観に到達できるための稽古を重ねることを推奨しています。この考え方を上記の従来の指導法と突き合わせてみると、従来の指導法では「音取り➡曲の解釈➡表現の調整(仕上げ)」、三善流だと「曲の解釈➡音取り+表現」となります。どちらが良いか、それを安易に断言することはできませんが、少なくとも両者では、そのプロセス間での「合唱体験」が異なることは重要な点です。
 
従来型の指導法は、合唱作品を仕上げるための要素を分断し、1つずつ丁寧に積み上げていこうとする傾向がある反面、それ以外の要素を排除するという側面も持っています。そのため、音をとる段階では、曲の内容は知らなくても実施できる、という状況が生まれます。
一方、三善流の場合は、曲の世界観や背景を分かったうえで音をとるため、要素が混同しているとも言えます。しかし、音をとる段階から作品の世界に自身の身を置くことができるため、淡々と音をとる際にも、その音の質感を考慮することができます。
つまり両者について、音取りという活動の質が異なり、それゆえに団員の「合唱体験」は異なっている、と言えるでしょう。
 
たった1つのプロセスの違いでも、合唱という場の意味は変わってきます。
まずは様々な合唱指導のスタイルを経験し、自分でも実施してみることはとても大事です。そうした試行錯誤を重ねること、またその試行錯誤を目前にすることで、団員1人1人が成長していくことを期待しています。
 
 
 
そんなことを思いながら稽古の見学や実施を終え、振り返りでは、詩について意識が向いていなかったこと、詩を振り返ると丸い言葉が多いこと、「ゐ」が使われているのが良い!という詩に目を向けた意見や、次に来る和音が予測できないから音取りがしづらい、合唱も声楽の発声で良いと言われるけどよくわからないという歌唱技術に着目した意見、全体の前で指導することの難しさを実感したという指導法に関する意見などが出ました。
 
それぞれの課題をとりあえず共有してみる、というところから、自分の課題を誰かの頭が考えてくれる、ということが始まります。自分の課題を自分の力で解決することも大切ですが、時には、誰かの頭を借りて一緒に考えてもらうことも良いかもしれません。そうして、仲間ができていくのかもしれませんね。
 
5月病、梅雨に負けずにがんばりましょう!
  小田…