よびごえ日誌


2019.10.01 【2019】よびごえ日誌 vol.017
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はじめまして!1B声楽専攻の松本夏実です。
こういった長い文章を書くのは得意ではなく、ずっと「日誌回ってきてほしくないな~」と思っていたのですが、いざ回ってくると書きたいことがたくさん出てきました。なるべく簡潔に書くよう努めます。
 
花音さんの発声練習からスタートしました。まずは肩甲骨をほぐすストレッチ。(私の肩は毎回ゴリゴリと良い音を立てるのですが、これって大丈夫なのでしょうか)
そして、a母音を使って今日の自分の声の確認。私は、自分の身体から声がうまく出て行っていないような気持ち悪さを感じながら歌っていました。
「考えすぎて、みんなから自由が奪われているような気がする」という花音さんの感想から、次は部屋を歩き回り、すれ違った人に会釈するという条件をつけて、同じ音形で歌ってみました。このときの皆さんの笑顔がすごく素敵だったのが印象に残っています。それに伴って良い声が出ていたのではないでしょうか?
 

 
最後は数人が発声練習を聴いて感想を述べる、という活動をしました。その中で最も多く出た意見が「歌っているときはわからないけれど、外に出てみるとみんなの声にばらつきがある」というものでした。それぞれの持つ声の質が違うのは当たり前のことですが、合唱ではそれをタブーとする場合が多いと感じます。少なくとも、私が今まで経験した合唱のほとんどがそのような方針をとっていました。
「肉声ではなく響きの統一を目指すべきではないか」という意見もありました。声が揃えられないのなら…ほかに揃えられるものがあるとしたら、やはり口の開け方や鳴らす位置なのだと思います。体のかたちにも個人差があるので、それもまた限界がありますが。
小田さんからもお話がありましたが、発声練習の20分間というのは、曲からは切り離された一人一人の本来の声を聴く貴重な時間です。『よびごえらしい声』とはどんな声なのか、これからのよびごえがどんな合唱団になっていくのか、私にはまだ見当がつきませんが、稽古を重ねる中でヒントを探っていきたいです。よびごえの未来がとても楽しみです。
 
今日のメインは「お母さん」の解釈を詰めることでした。言葉の意味はだいたい分かるけれど、どのような物語が展開されているかが掴みにくいこの曲。この歌詞に登場する『わたし』『お母さん』は何歳くらいなのか、なぜ母の名前を呼ぶのが「恥ずかしい」のか、等々、多くの疑問が生まれます。疑問点は楽譜の上にもあります。例えば、19ページ2段目はなぜmpで歌わなければならないのか。これには「お母さんが去っていくことにうろたえている」など興味深い意見が出てきましたが、私の中ではまだしっくり来ておりません。次回以降で何か見つかればいいのですが。
 
長くなりそうなのですが、備忘録としてここに私なりの詩の解釈を載せておきます。次に日誌を書くのは、きっと次の目標に向かって練習をしている頃だと思いますので…
 
ミーティングでも少しお話しましたが詩の中の『わたし』(以下『』省略)は母の着物の匂いを嗅いだあと眠りに落ちてしまったのだと想像します。熟睡ではなく、うたた寝くらいの浅さです。浅い眠りのときにはよく夢を見ると言われていますよね。「何十年もむかし こんな風に臥ていた日」からは、わたしはまさに母の夢を見ていると思うのです。夢の中で生前の母と再会し、安心したのもつかの間、実際に起きたのと同じように母は何らかの理由でわたしの元から去ってしまう。その次は「痛い」「苦しい」とあるから、戦火の中での別れだったのでしょうか?それとも、ここからは現実のわたしと夢の中の幼いわたしが混ざって、現実の苦しみが夢にまで出てきているのでしょうか。「冷たいお茶がほしい」「夜はいや 朝にして」という口調から、わたしは完全に幼い頃に戻って母に甘えています。「どこへも行っちゃいや」でわたしの悲痛な願いは最も強くなりますが、ここで夢は醒めてしまいます。そのあとのピアノが、母がもういないことの絶望を表している…ここまでが、解釈と呼べるかわからないほどの解釈(仮)です。まだ分からないこと、腑に落ちないことはたくさんあります。
 
今回、詩から何かを感じ取ることはできたわけですが、それを自分でどう歌唱に反映させるかが難しいところです。演奏者が曲から何か感じていても、それが演奏に変化をもたらさなければ、意味がない…この日一番、心に刺さったひとことでした。
 
目には見えないが、確かにそこに存在するもの(≒詩の世界)を想像するという活動は、とても楽しい時間でした。こうした歌詞読みの活動は今まで何度も行ってきましたが、そのたびに、人は見えているものよりも見えないものに心惹かれる傾向にあるのかなと思います。
サン=テグジュペリの代表作『星の王子様』にも「本当に大切なものは、目には見えないんだよ」という台詞があります。私はこの台詞が好きで、初めて読んだときは軽い衝撃を受けたものです。しかし、人はいつから見えないものの重要性に気づき、光を当てようとしてきたのでしょう。私がこの台詞にハッとさせられるのは、目に見えているものがすべてではない、目に見えないものこそが大事だという教訓が浸透した現代に生きているからなのかもしれません。
 
…話がかなり逸れてしまいましたね。
 
小金井祭で演奏予定のもうひとつの曲「知るや君」も、目に見えない大切なものを描いています。「恋」を「琴の音」と言い換えるなんて、なんて素敵なのでしょう。島崎藤村の情感溢れる詩にときめきながら、転調後の盛り上がりを楽しんでいます。私はアルトのセカンドを歌っているのですが、このパートは全体を通してカデンツの役割を持っています。曲のカギになる音がたくさん散りばめられており、アルトであることの喜びを歌うたびにかみしめています。相澤直人先生の作品って、アルトが美味しいものが多い気がしませんか?私は低いEsがあまり鳴らず苦戦していますが、もっと全体を意識しながらより良い演奏ができるよう努力します!次回の稽古はこちらの解釈の詰めです。頑張ります。
 

 
この日の集合写真は、なんといっても人が多い!密度が高い!夏休み中はたった6人での稽古もあったので、これだけの人数で歌えて嬉しかったです。最近のよびごえは写真に面白さを求めています。今回はあえて真顔で撮ってみました(何人か堪えきれずに笑ってしまっていますが)。よびごえには真面目な人が多いので、ゆっくり少しずつ弾けていきましょう。
 
次の日誌は、しーずーさんにお願いします!(^O^)

松本