よびごえ日誌
2022.11.16
【2022】よびごえ日誌 スタコン終了
タグ:小金井祭 , 本番前後 , 演奏音源
小田です。小金井祭に出場されたみなさん、本当にお疲れ様でした。
先日、僕が書いたよびごえ日誌で、「Salve Regina」と「白日」を選んだ理由については、少し語ってみましたので、みなさんの演奏を聴いて、合唱の学びの深いところと僕が思っていることについて、少しだけ共有を試みたいと思います。
みなさんよりも少し先輩のよびごえメンバーで、吹奏楽と合唱の違いについて、振り返りの時によくご発言くださる方がいました。「合唱にはテキストがある、それを教育資源として活かせるようになりたい」というような趣旨のことをおっしゃっていたと思います。
これについて、異論を唱える方はいないと思います。確かに、吹奏楽と合唱では、テキストの有無は表現の差異として認められると思います。
音楽は言葉である、ということについて、みなさんはどの程度、考えたことがあるでしょう。
これについて考えるとき、そもそも「言葉とは何か」ということを考える必要もあるでしょう。
では、改めて問いますが、「言葉とは何か」ということについてみなさんはどの程度考えたことがあるでしょう。また、みなさんは言葉とはなんだと説明しますか?
教科書的で明確な答えを探そうとすることよりも、ここではみなさんが普段使っている「言葉」について振り返り、その特性を今一度捉えてほしいことを目的として問うています。
僕の考えです。言葉は、自分以外の誰かに、何かを伝える必要性がなければ発達してこなかったと考えています。
最もプリミティヴなレベルでいうと、何かを伝えあうことが生存状態を維持することに有利であり、そのために時間をかけて複雑に発達させてきたのだと思われます(複雑な情報をより正確に共有できることは生存に有利だったのでしょう)。
つまりは、言葉の本質は、誰かに何かを伝える、ということであって、むしろそれだけの概念なんだと思います。
そう思うと、誰かに何かを伝えるものであれば、そのすべてを「言葉」と呼んで良いと思っています。
きっとこうした考えは僕だけのものではありません。書き言葉やしゃべり言葉といった、特定の文化圏で発達した、俗に ~語 と呼ばれるものだけが言葉なのではなく、ジェスチャーも何かを伝えますし、ダンスや美術作品、そして音楽も何かを伝えるので「言葉」なんだという考え方は、古くから西洋を中心に存在していました。
~語と呼ばれるものについては、新しい単語が開発されたり、単語と単語をどう結び付けることでどういう意味作用を期待するのかという統語(文法)という考えが発達していくことで、「言葉」としての豊かさを見出すわけですが、音楽はどうだったのでしょう。音楽は、多分にしゃべり言葉や書き言葉の影響を受けることで、音と音がいかに結びつくのか、ということが開発されていったと考えられています。これについては、レナード・バーンスタインの「答えのない質問」がとても面白い視点を与えてくれると思います。図書館で夢中になって毎日視聴覚ブースでビデオを見ていたころを思い出します。バーンスタインとしては、音楽にも文法があって、音と音が結びつくとき、例えばそこにはカデンツみたいなルールがある、それは言葉が 主語と述語 の組み合わせを基礎として多様なヴァラエティを持つことと似ている、というように説明しています。
さて、なぜ急に小田がこんなことを言い出したのか、ということにゆっくりと立ち返りたいと思いますが、「Salve Regina」のように私たちの私生活ではなかなか使用しない言語を歌唱するとき、テキストはよく分からないけれども、音楽的にはこういうフレーズで処理したらいいんじゃない?という「直感」が働く人もいるかもしれません。でも、言い方を変えれば、なぜその直感が作動しうるのかというと、音楽とテキストがそれぞれ異なった「言葉」だからであり、合唱作品(歌唱作品)は、そうした2つの言葉が併存するということが形態の独自性となっているからです。
声楽作品の作曲様相の歴史的変遷を思うと、歌唱作品にはそもそも2つの言葉(音楽、テキスト)が内在しているということを作曲家の中で自明のこととし、基本的にはテキストのもつリズム感や単語と単語の結びつきの強さの程度、意味などをいかに音楽に自然な形で反映していけるのかということが重要な技法とされてきました。例えば、作品を評する際に「テキストと音楽がよく合ってる」なんて言葉を耳にすることもありますが、まさにそうした価値観のことを指します。しかしもちろん、時代が新しくなるにつれ、テキストの内容について、いかに音楽という言葉によって広がりを持たせられるのか、ということが作曲家の興味の対象になってきます。つまりは、いつまでもテキストに迎合した音楽であることを良しとせず、声楽作品の中での「音楽」の表現を問うようになってきます。歌唱作品を構成する2つの言葉の力関係に変化が起ころうとしているということです。テキスト優位の場合は、音楽はテキストのしもべとなって、ペットのようについていくわけですが、テキストと音楽がともに独自の位置を見出した作品については、例えば「テキストと音楽の結婚」という美しい表現で言われることもあります。
つまりは、冒頭で引用したみなさんの先輩の発言を思い返すと、その方がおっしゃっていたのは、吹奏楽と合唱の違いを、表現形態に内在する言葉の数で捉えようとしていたこと、また合唱にはテキストがあるよね、というシンプルな問題ではなく、2つの言葉の関係性をいかに教育的に活用できるのか、ということを言っていたのではないかと思うのです。
さて、結論なのですが、「Salve Regina」と「白日」について、2つの言葉の関係性はどうなっていたのでしょうか。実は、一柳さんが初期の稽古の振り返りで少しおっしゃっていたようにも思いますが、この2つの作品については、こうした観点からも異なるタイプの作品であったように個人的には振り返っています。Salve Reginaはラテン語のテキストからアプローチ? 白日はノリや音楽からアプローチ? もしかすると、知らず知らずのうちに、この2つの言葉についてみなさんは直感的に捉え、それを演奏法につなげていたのかもしれません。そんなことを、みなさんの小金井祭での演奏を聴きながら考えていました。
最後に、今回の春こんの自由曲。その1曲については3つの言葉が併存していることにはお気づきでしょうか?音楽、テキスト、そして踊り。音楽では何を伝えられるのか、テキストでは何を伝えられるのか、踊りでは何を伝えられるのか。そして、そうした3つの言葉をもつ作品というのは、2つの言葉をもつ作品と比べて、お客さんへの届き方は何かが異なるのでしょうか?いろいろと、楽しく考えてみてください。
問いをもつこと、チャレンジすること、よびごえはもっともっと、合唱の本質に迫ることができます。合唱を究めてください。そして、それが将来の子どもたちとの合唱活動のエネルギーになることに心からの願いを込めて。