よびごえ日誌


2024.03.01 【2023】よびごえ日誌 vol.12 選曲への考え方
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こんにちは。小田です。
よびごえ日誌について、僕も更新ができておらずに申し訳ありませんでした。
※ごめんなさい、超長文です。
 
今年度は2月12日に春こん。を終えることができ、誰一人欠けることなく演奏できたことをとても嬉しく思っています。また当日はOGの先輩が応援に駆けつけてくださり、とてもありがたかったです。
 
今回の自由曲は以下の2曲。
 
混声合唱のための『だるまさんがころんだ』より「Ⅰ」(矢川澄子詩/長谷部雅彦曲)
混声合唱のための『風の馬』より「第3ヴォカリーズ」(武満徹曲)
 
相変わらずよびごえでは、「今年はこの曲をやるのね!」ではない、「???なんだこの曲は?」という選曲になりました。悩みに悩んだことは、前回のよびごえ日誌で書いた通りですが、改めて、今回の選曲のポイントを、記録として書いておきたいと思います。
 
  
➀いまいるメンバーでなければできない作品であること
➁いまもっている能力ではできない作品であること
➂数か月をかけて取り組むに値する内容や背景をもった作品であること
➃聴衆とも合唱の良さを分かち合える作品であること
 
 
とても初歩的な話をするならば、「(小田が)やりたい作品だから」「流行っている作品だから」ということではなく、教育的に価値ある作品であるかどうか、つまりは取り組むことでよびごえメンバー1人1人に何かしらの変化が期待できるかどうかを検討するための観点とも言うことができるかもしれません。
 
➀いまいるメンバーでなければできない作品であること
音域や声質といった技術面や、メンバー同士でのコミュニケーションのスムーズさや困難な状況下における粘り強さといった人間性やメンタル、詩や音楽への柔軟な発想(解釈)ができるという想像力や創造力など、いくつかの側面から、まずは、メンバ―1人1人の強みやこれから伸ばしていきたいところ、団体としてのポテンシャルを総合的に考えることが重要です。
合唱はチームであることから、一人ひとりがすべての観点で高い能力をもっている、ということが求められるわけではありません。あるメンバーが技術面で高い能力を持っていれば、その人がある程度は技術面で団をリードしてくれるかもしれません。一方で技術面はもう少し伸ばしていきたいけれども、想像力や創造力はキラりと光るものをもっている方もいますね。場を和ませたり、笑いをおこすことのできる方もとても貴重です。
いまのチームを構成する一人一人はどういうことが強みで、グループとして見たときにはどういう強みや課題をもったチームなのか、ここまでを整理すれば、あとはメンバー一人ひとりの強みが十分に発揮できるように、そして課題はちょっとでも自信に変えていけるような、そうした選曲ができれば、今いるメンバーで演奏する価値が生まれてくるように思います。
逆に言えば、そうしたメンバーやチームの分析無くして選曲をする場合、本当にこのメンバーで演奏する価値とは何だったのかを見失うときが来るかもしれません。仮にものすごく明るいキャラクターの方が集まっている団に、「戦争の苦しみ」をテーマとする曲を選んだとして、技術的にはクリアできたとしても、それを私事として捉え、仲間とともに心から共感して歌うことはできないかもしれません。「団に合った選曲を!」と合唱祭や春こん。の講評で言われることがありましたが、それは決して技術面だけのことではないように思います。
 
➁いまもっている知識や能力ではできない作品であること
教育機会として考えたとき、僕は現メンバーが今はもっていない力(知識や能力)だけれども、約5か月かければきっとできるようになるような力を想定して、「できなかったことが、春こん。を通してできるようになる」ということを重視しました。例えば、今回は、いくつかのことを念頭に置きました。ぱっと思いつく例を挙げると、「変拍子は苦手だったけど、少しは慣れた」「無調は音がとれなかったけど、少し感覚が分かった」「自分のパートが1人だとしても自信をもって歌えるようになった」「発声のメカニズムを理解して歌ってみると、いつもとは違う声を出せるようになった」「楽譜を見たときにできなさそうな不安があったけど、いまは似たような楽譜を見てもそこまで不安を感じなくなった」「これだけ難しい曲をあきらめずに演奏できたんだから、もうほとんどの合唱作品は怖くなくなった!」…というような変化をしてほしいな、というものです。
すでにもっている能力で十分に取り組める作品の場合は、教育としての価値に限定して考えれば、そこまで選曲の優先度は高くないように思います。これは、「そもそも教育とは何か」というとても大きなテーマとも関わりますが、自然発達の過程でできるようになることは、特別な教育介入をせずとも自然に獲得されるため、あまり介入の必要性は無いように思います。しかし、自然には気づけなかったり、身につかないようなこと、もしくはいつかは気づくかもしれないけど時間がかかる可能性が高いもの(例えば慣性の法則や三角形の面積を求める公式など)は、自然に気づくのを待たずに先人の研究成果を先に教えることで効率的に他のことを学ぶことが可能になります。そうして、いろんなことを知り、できるようになるよう介入していくことが、教育を受ける側にとっては将来の選択の幅を広げたり、自分らしい生き方を支援していくことにつながるのではないかと思います。(逆に言えば、何か新しいことを知ったり、できるようになるわけではない介入は教育ではないとも言えます)。
約5か月間でどの程度の力がつくと予測ができるか(変化を期待できるか)、それはやはり、選曲前のメンバー一人ひとりへの十分な観察と、メンバー一人ひとりへの信頼があってこそのように思います。予測ができない場合、何が起こるかというと、メンバーの能力と作品に取り組む期間に対して、不釣り合いな高度な能力が求められる作品を選曲してしまうことや、反対に簡単すぎる作品を選曲してしまうことが考えられます。このどちらにもメンバーに対するデメリットがあります。もし作品が十分に飲み込めなかった場合は達成感が得られず、また人によってはそれを失敗体験と感じるかもしれません。反対に簡単すぎる場合は、飽きてしまう、というのがよく見られます。モチベーションを維持できないということです。このあたりは、教育実習に行かれた方は、指導案作成時や実際の授業でご経験をされているかもしれません。
 
➂数か月をかけて取り組むに値する内容や背景をもった作品であること
中学校における校内合唱コンクールでも、各校種におけるクラブ活動や部活動における合唱でも、この点は重要になってくると思います。音楽科の授業を考えると、年間で限られた時数の内、一定の時間を割くに値する内容や深みのある作品かどうか、クラブ活動や部活動においては、連日の練習を行ったことを生涯の中で位置づけたときに、価値のある作品であったのか(人生で出会って良かった作品なのかどうか)、ということはよく言われることに思います。
作品に取り組む中で、最初は音を取ることや、合わせをすることに必死な状態だったものが、どんどん作品に慣れていったときに、「響き」に特に美しさがある作品の場合は、丁寧に練習するほどに声を重ね合わせることの素晴らしさを感じられるかもしれません(例えばE. Whitacreの”Sleep”は響きが美しいです…!)。詩の意味が分かることで、「こう歌いたい!」が出てくる作品の場合は、詩の解釈やそれを表現につなげていくことで、解釈することや自分とは違う意見を取り入れながら演奏を一緒につくっていくことの楽しさを感じられるかもしれません。そうした、数か月をかけることでどんどん合唱することの良さが分かっていくような作品でなければ、どこかで合唱団はエネルギーを失っていくように思います。
一時期は、哲学的な詩や社会問題、日本古来の文化等をテーマとした詩をもつ合唱作品が国内で数多く生まれました。三善晃で言えば『オデコのこいつ』や「わりばしいっぽん」、南安雄の『日曜日~ひとりぼっちの祈り~』、間宮芳生の「合唱のためのコンポジション」シリーズ、鈴木憲夫の『永久ニ』といったものです。今は、詩の内容面は昔ほど多様さはなくなったように感じています。一方で、響きの美しさの面では、今の時代の方が個人的には色彩が華やかになったように思っています。三宅悠太や土田豊貴、横山潤子の作品のように、響きがかっこいい曲はどんどん生まれているように思います。(余談ながら、作品のもつ響きが変わってきた分、求められる声のポジションも変わってきましたし、作品で想定されている合唱団の規模も、楽譜をみると変わってきたなぁとも感じます。)
数か月をかけることでしか気づくことのできない合唱の良さをもっている作品かどうか、それは教育の観点からは見逃せないものでしょう。
 
➃聴衆とも合唱の良さを分かち合える作品であること
演奏者として忘れてはいけないのは、演奏するとき、そこには聴き手がいることです。僕が(比較的)マニアックな作品を選ぶ理由について、どこかでお話したかもしれませんが、よびごえのみなさんが歌ってくださることで、お客さんが「この曲素敵!」「こんな曲が合唱作品としてあったのか」と思ってくれたら、お客さんがもっと合唱を好きになってくれるかもしれませんし、作曲家やその作品の見直しにつながるかもしれません。
その先に楽譜が売れれば、経済活動が付いて回ることになります。副次的ではありますが、これはとても重要なことだと思っています。作曲家の方がまた新しい作品を生み出してくださるきっかけになるかもしれませんし、やはり歌ってもらえることで作品は初めて「生きる」ことになりますので、作曲家の方の活力に直接影響するでしょう。
お客さんが十分に知っている曲を聴くとき、僕の勝手な考えかもしれませんが、過去の名演と比較しながら聴いたりしていることってあるんじゃないかと思っています。それは「粗探しの聴き方」と僕は思っているのと、それは合唱の良さではなく、コンクールに偏った聴き方に思っています。「合唱本来の楽しさ」をコンクールから切り離して聴いてもらうためには、やっぱり、聴き馴染みのない、それでいて内容の深い曲がいいんじゃないかな、とは思っています。
というこの考えは、とある高校の有名合唱部の先生の話をお借りしました。「コンクールで勝てる曲」というのがある、と感じていた時代があるのですが、そのことを思っていた時、全くコンクールっぽくない曲で全国大会に進んだ学校の先生で、その時からずっと「なぜあの選曲にしたのか聞きたい!」と思っていたのが叶った時に伺った話です。
 
 
……、めちゃくちゃ長いやん!と思われるかもしれません。僕も思っています。
しかし、「選曲」(教材選択)という行為は、合唱活動の方向を直接的に決定するものであり、つまりは教育活動の方向を決定するとても重要なことだ、ということをみなさんとシェアしたいと思いました。
コロナ初年度、オンライン勉強会を開催して、「作品を通した体験探究」と題し、「教育的な視点で合唱作品を分析する」という活動を行っていました。その時の記事がよびごえ日誌に残っていますので、リンクを貼っておきます。児童合唱や混声合唱、女声合唱の、さらには社会問題を含むもの、ナンセンス詩、宗教作品、ポップスなどの様々な作品を毎回取り上げながら、グループに分かれて、ワークシートの問いをメンバーと一緒に考え、発表し、そこからさらにみんなで考えるような活動でした。ワークシートも当時のものを参考用に貼っておきます(音源と楽譜もワークシート中のリンクからアクセスできます)。
 
さて、ここまでで4500字という、、、やばい!!と思っています。
今回の春こん。にて実際に選んだ2曲に関する簡単な説明はYoutubeの概要欄に書きましたため、そちらをご覧ください。
 
 
いつぞやに、春こん。が終わったとき、「合唱とはなにか」ということを考えてみてください、ということをお伝えしたように思います。
定義としては、そんなに難しくないとは思います。複数名が、いくつかの声部に分かれて歌唱する音楽の表現形態の1つですが、もちろんそんなことを考えて欲しいわけではありません。
質問が広すぎるので、質問が悪いのかもしれませんが、合唱は、例えば1日のルーティンでは、発声練習や体操、パート練習、全体練習などがあり、それぞれを効果的に実施することでより良い演奏をつくっていく営みとも言えます(「合唱はより良い演奏をつくっていく営み」)。運営面では、練習の計画を立てたり、選曲をしたり、稽古場所をおさえたり連絡してくれる人がいて・・・という、組織としての見方もありますね(「合唱は組織」)。メンバーの仲が良ければ練習も運営もスムーズにいくかもしれませんが、そうでなければうまくいかないこともあるという精神的な共同体としての側面もあるでしょう(「合唱は精神的な共同体」)。合唱を通して「何を学ぶか どのように学ぶか 何ができるようになるか」という、教育活動としての側面ももちろんあるでしょう(「合唱は教育活動」)。
 
いまのみなさんにとって、「合唱」とは何でしょう?
 
「合唱」の概念は一面的ではなく、いくつかの側面から捉えることができるということと、それぞれについて深い知識が要求されるということは言えそうです。
僕が学部生の頃は「合唱は楽しい!」「合唱は青春!」くらいにしか考えていなかったと思います。でもそれは、教育者としての実感が薄かったからであり、ただの合唱好きとして、合唱に参加する側の考えだったように思います。一方で、教員になるために求められているのは、合唱の場をつくる側の考えですよね。
いろいろ考えると頭がパニックになるかもしれませんが、この1年間のよびごえでの経験を振り返っていただくと、たくさんの経験をした分、いろんな合唱の姿が見えてくるのではないかと思います。時間があるときに、ぼんやりと考えていただけるといいなと思いますし、ぜひぜひ、僕にも考えたことを教えてください!
よびごえのみなさんと、まだまだ一緒に考え、強くなりたいと思っていますし、一緒により良い「合唱の場の作り手」を目指せれば嬉しいなと思います。
 
長くなり過ぎましたが、最後に、一番伝えたかったことです。
よびごえメンバーの一人ひとりに、心からの感謝と、敬意をもっています。よびごえの場を継続し、大切にしてくださり、本当にありがとうございます。
 

小田直弥