よびごえ日誌
2023.03.10
【2022】よびごえ日誌 メッセージ(堀切)
タグ:メッセージ , 春こん
こんにちは!4Aの堀切です。
今回のよびごえ日誌は、書きたいことは沢山あるのになかなか書き進めることができませんでした。それは、書きたいことを文面にした時に、言葉が気持ちから離れていってしまうような感覚が強かったからです。書くために書いているような感覚、という感じでしょうか。普段の振り返りでは、直接話しているという即興性とライブ感で素直なことが話せますが、文章にするというのはそれ特有の難しさがあると感じました。ただ、今回の本番とこの4年間の振り返りを記録として残しておきたいので、できるだけ飾らず素直に書けたら良いなと思います。
まずは、今回歌った2曲について書きたいと思います。
今回歌った「Cikala le Pong Pong」と「Soleram」は共にインドネシアの曲ということで、そのアプローチがとても難しかったです。今、私自身やよびごえ全体としての曲に対するアプローチを振り返ると、共通性と固有性という視点が重要だったのではないかと感じます。私は、「Cikala le Pong Pong」を理解するにあたり、日本や自分との共通性に先に注目し、それを基盤として固有性に迫っていったと思っています。少し具体的に書くと、まず日本の結婚式のしきたりや様式と曲とを比べ、相手の家を立てたり形式を尊重したりして、思いとは裏腹なことを言うという共通性があると思いました。その後、では本当の思いとは何なのか、それはどうやって子どもや聴いている人に伝えているのかという共通性を基盤とした視点ができ、それがシンプルなリズムやフレーズを繰り返して没入感を生み出すというインドネシアの音楽の特徴や、踊りも含めたこの曲がもつ民族的なエネルギーの高さといった固有性の理解・体感につながりました。一方「Soleram」の場合は、インドネシアでポピュラーな子ども向けの歌であるということや、インドネシアの国民性と言われている奥ゆかしさが反映された歌詞であるという知識が先にありました。そしてその固有性から曲の背景を捉えた上で、子どもを想う親の気持ちという国を越えた共通性が、曲の世界観や歌っている時の自分の支えになっていたと感じます。私の中でも、曲によってアプローチが違いますし、同じ稽古をしている他のよびごえの方々も、人によって様々なアプローチをしていたのだと思います。どれが正しいということは無く、自分が一番腑に落ちる形で曲に対する理解を深められることが大切だったのだと思います。自分達とは異なる文化や音楽とどう接したら良いのか、その過程を実際に体験できたことはとても勉強になりました。
次に、よびごえの活動全体について書きたいと思います。
最初はよびごえの本番までの過程をできるだけ詳しく整理しておこうかとも思ったのですが、何だか違う気がしたので止めました。ここでは、よびごえの活動の自分なりの解釈について書こうと思います。
よびごえでやっていることを私なりに一言で表すと、「表現の主体者として、根拠をもって音楽をデザインすること」だと思っています。これが成り立つためには様々な要素が関係していると思いますが、団員個々の解釈や音楽表現が尊重されること、曲の世界観を理解する機会が保障されていること、この2つが特に重要な要素だと思っています。そして、この重要な要素は、解釈や音楽表現を無理に統一しないこと、曲の世界観について歌詞や背景、音楽から理解した上で、それを音楽表現に還元すること等の、よびごえで大切にしている考え方に支えられていて、そのような考え方がよびごえらしい学びを形づくっているのだと私は解釈しています。また、よびごえにおける合唱に対するアプローチが、そのまま団員同士の関係性の基盤になっていることが、よびごえという合唱集団の人間関係の特徴だと私は思っています。個人を尊重し主体的に行動するというのは集団の理念としてよくあるものだと思いますが、それが指導法と照らしても齟齬が無いというのは珍しいことなのではないかと思います。そして、このような活動をしているよびごえだからこそ、自分らしく学ぶことが誰かの学びや気付きになっているということに、卒業のタイミングで気付かされました。私にとってよびごえでの学びは、色々な要素や視点が混ざりあった多角的で開かれたものだったので、これからも自分の中で反芻しながら学びを深めていきたいと思っています。
さらに、私自身の大学4年間について書きたいと思います。
大学4年間を振り返ると、大切にしたものは大切になるということを改めて実感します。例えば、何かやってみたいことや興味があることに思い切って挑戦したことで、それが自分にとってすごく重要なものになったり、自分が変化するきっかけになったりしたことがありました。また、自分が大切にしたいと思っていたことが、色々な原因で大切にしきれなくなりそうだったとき、そのままそれを手放してしまったことも、ここだけは譲れないと大切にしきったことで、自分の揺らがない根幹になったと感じたこともありました。さらに、最初はあまり大切に思えなかったことでも取り組んでいくうちに、気付いたら実は大切なものになっていたということもありました。何かと接するときそこには必ず相手や対象が存在して、自分がした行動の影響を自分も相手も必ず受けるということを忘れないようにしたいと思いました。大学で学んだことを大切にしながら、何かを大切にできる勇気と柔軟性をもって過ごしていきたいと思います。
最後に、いつかこの日誌を読みにくるであろう自分に、せっかくのHPの位置づけを生かしてメッセージを残そうと思います。
この日誌を読みにきたということは、おおよそよびごえでの合唱体験をどうにか自分でも実践しようとして、行き詰まってしまったといったところでしょうか。もしよびごえの詳しい練習の様子が知りたいのであれば、他の日誌や当時の楽譜・録音を振り返れば良いと思いますが、そこまで不安になり過ぎる必要はないと思います。よびごえでせっかく学んだことを取りこぼしてしまったと思っているなら、たった4年で全てが理解できるほど合唱は単純ではないし、自分が本当に大切にしたいと思っている理念はちゃんと自分の中に残っていると思うので、安心してほしいです。むしろ、変わり続ける自分の教育観の中で、よびごえで学んだことを捉え直すことこそが、よびごえでの学びを生かすことにつながるのではないかと思います。教育観を確かに、柔軟にもちながら、目の前の子どもをよく見て、ともに学びを作っていってください。
本当に最後になりますが、よびごえで関わってくださった全ての皆さん、本当にありがとうございました。よびごえにいられて本当に良かったです!