よびごえ日誌
2024.08.20
【2024】よびごえ日誌 vol.8 夏休み番外編
タグ:号外 , 合唱指導法 , 発声 , 表現 , 解釈
みなさん、こんにちは。小田です。
昨日の勉強会に参加された皆さん、本当にお疲れさまでした!音源はまた後日もらえるものでしょうか?勉強会そのものの企画・運営をくださった室伏さん、小林さんをはじめ、参加団体の皆様等、すべてのみなさんに、感謝しています。こうした機会をつくってくださったこと、本当にありがとうございました。
さて、今日は、よびごえ初の試みとして、東京を飛び出し、とある高校のコーラス部さんの練習を見学させていただきました。今回のよびごえ日誌では、そのことについて綴ろうと思います。長くなると思いますが、僕の記録のためにも、感じたこと、考えたことの一部分を書き残したいと思います。
昨日、一足先に高校さんにお伺いし、稽古を見させていただきました。最初に目にしたのは、部活が始まる前に筋トレをしていたり(僕が見たのは腹筋)、楽譜を見ながら確認している姿だったり、小さなキーボードを持って1人1人が発声練習をしている様子でした。音楽室のこの感じ、「なつかしい!」というのが真っ先にありました。ノスタルジックな書き方をしたいわけではありませんが、高校生の頃、僕は一日中合唱について考えていたと言っても過言ではないくらいに、合唱が大好きで、授業中も、内容に不安が少ない教科については、「今日のパート練で何やろうかな」「あそこが歌えてないからもう少しこうしたいんだけど、どうやったら声が変わるんだろうか」と、そんなことを考えながら、窓の外を眺めていたことを思いだします。部活後の音楽室も好きで、男声でパート練をしていると「はよ帰らんかい~」と言われて帰っていたのを覚えています。大学にいると忘れがちな、現場の「匂い」とでも言いましょうか。大学の講義や教科書、論文には無いリアルです。
発声練習は、その流れが身体に染み込んでいるスムーズさで、無駄がなく、発声練習後は、ペアになっていた先輩が後輩に助言をするという、「教える」活動が組み込まれていました。「教える」ことには、知識も技能も求められますし、その人の言うことを聞こうという信頼関係も求められます。とりわけ、パート練を引っ張っている生徒さんは、声楽のアカデミックな用語をかなりご存じでいること、また自身の声について、課題と改善を明確に言語化できているのが印象的でした。
「響きを高く」「落とさない」、これは先生が繰り返しおっしゃっていた言葉です。とにかく生徒一人一人がより良い発声を目指しているし、その意識が徹底されていることが、なによりも素晴らしいと思いました。2日間の見学を通して、「より良い発声を追究し、声を使いこなすことが部員の仕事」、「より良い声と音楽を導き、モチベーションや心を支えることが先生の仕事」、それぞれが良い仕事をしたいと高みを目指している、そんな会社のようにも感じました。
僕にとって、今回訪問させていただいた高校さんは、特別な思いがある高校さんでした。高校生の時から、今に至るまで、18年くらい、ずっと頭にあり、録音や映像で拝見していました。高校の頃は、電車で40分くらいかけて通学していたのですが、MD、それからMP3プレーヤーなるものが流行っておりまして、合唱曲だけのMDや、MP3プレーヤーのリストを作って、その高校さんの演奏を、毎日、何回も何回も繰り返し聴いていました。
「やっぱり生は違う」。そんな当たり前のことですが、言葉では足りないほどの大きな感動がありました。思い出補正もあったのかもしれませんが、音楽室に響いていた音楽は、決してコンクールのための音楽でない、誰かの心に届けるための音楽だと感じましたし、大きな愛のある音楽でした。
さて、部活動の始めから終わりまでの流れについても、勉強になるものがありました。体操は無く、早速に➀発声が始まり、➁パート練からの➂全体練、コンクール間近ということもあってか➃録音通しからの➄返し練、⑥事務連絡等を済ませたら、最後は⑦自主練時間があって解散というものでした。
個人的な注目は、体操が無いことと、最後に自主練時間が予め組み込まれていることでした。体操は、多くの学校で形骸化しやすく、また運動部の筋トレや、体育の授業の準備運動をそのまま持ってきているような学校もあるため、生徒の中で、体操をやることと歌が上手くなることとがどのように関係しているのかを実感しづらいという点で、取り扱いが難しい活動だと感じています。その点で、どんな体操をしているのかな、と気になってはいたのですが、まさか、無かったので、「合理的!」と僕の中ですっと理解ができました。別に、体操があろうがなかろうが、ちゃんと中身の濃い活動していればいいんだ、というように捉えました。
最後の自主練の時間は、きっと、その日の学びを自分の力で整理したり、発展させるために設けられていたんだと、推測しています。そう考えると教育学的にはとても合理的です(学びの定着)。「今日もやりきった!終わった~」ではなく、「今日言われたことを整理して帰ろう 分かんなかったら先輩や先生もいるから聞いて、分かるように/できるようになってから帰ろう」、そうしてまた次の部活の前に自分一人で復習して、発声➡パート練➡全体練をして、また一人で整理、発展させる・・・こうしたサイクルは、非常に勉強になりました。大学生でこれをやろうとすると、「活動終わったからかーえろっ」となってしまうような気もしますが、よびごえのみなさん、後期の活動から試してみるのはどうですか…?
自主練の時間が終わっても、先生に質問をしていたり、次の部活に向けて打合せをする姿もあったり、音楽室が閉まっても、廊下でその日の指摘事項を一緒に声を出しながら確認していたり……、ずっとどこかで歌声が聴こえ、真剣さと穏やかさの入り交じった空間でした。
ここに書ききれないのは、あの、圧倒的な「響き」でしょう。
練習を見させていただきながら、春こんの時に、ほぼ毎年僕が「いま何割ぐらいで歌ってる?8割か9割にして」と言っていることを思い出していました。「ここは音量記号はピアノだけど、和音を鳴らさなきゃ」「もっとしっかり出して」と先生がおっしゃっていたことも、「そうなんだよな、息が流れて声量がある程度ないと、和音って鳴らないんだよな」と、共感していました。完全音程をしっかり決めたり、子音や母音のトーンをそろえることで和音が鳴る土台(準備)ができていれば、あとは声が正しいポジションに入れば、和音は一気に鳴り始めます。それが曲のエネルギー(legato)と重なると「音圧」という、ビリビリ、というものを体感できるまでに空気が鳴り始めます。よびごえのみなさんも、「音圧」のある合唱を、毎年春こんでは経験できていると思いますが、「もっとできる」、そう思いました。少人数でも鳴らすことはできるので、ここは僕の宿題でもありますし、みなさんと一緒に、もっと合唱の可能性を探してみたいポイントでもあると思いました。
ここで私たちが一緒に考えたいのは、「教師に求められる力とは何か」、ということです。
今回は、先生ご自身が声楽についての高度な知識・技能をお持ちでいらっしゃり、男声女声問わず、「人体の構造」という共通点から、発声をご指導されていました。僕個人の経験として、声楽は極論、男女問わず「身体をあけて息を流すだけだ」と習ったこともありますが、細かいことはさておき、つまりはそういうことなんだと思います。息の方向や、頭の中での母音のポジションのイメージを間違えると、声は平べったくなり、響きもきつくなりますが、十分に息を吸い、吸った通りの道を通って息が流れ出て、その道沿いに母音を置き、目の方向へ、それから前へと、どんどん息と母音が流れていけば、声は柔らかく、頭蓋骨全体がまろやかに響きますし、それは男声も女声も違うことはありません。そんなことを、ものすごくシンプルに、実演とともに要点をおさえてご説明されている先生のお姿から学ぶことはものすごく大きかったです。
こうして書くのは簡単ですが、これについて、それができるようになるまでにどういった困難さが起こりやすいのか、ということを予測して、それら1つ1つへの対処法をカードとして持っていくことが、まずは教師の力と言えますね。例えば、「なかなか声が前に出ないとき」「声のポジションが低くこもっているとき」「あごや舌の力が抜けないとき」「高音における息のスピードが遅いとき」「一番低いバスの低音が散ってまとまらないとき」にどんな手立てをもって関われるか、みなさんだったらどう指導するでしょう(これらはこの2日間で実際に相談を受けたものでした)。短時間で解決できるようなものはさくっと直してしまうのがベストですが、なかには筋力が必要なものや、感覚の洗練が必要なためにどうしても時間がかかるものもあります。その場合は、できるようになるまで介入し続ける必要があります。重要なこととして、小学生だとしても、高校生だとしても、声に関わる以上、健康に問題を起こしてはいけません。「声とその学びに関する正しい知識と判断力」が、教師には求められています。
教師の力は、そうした声に関する知識や技能だけではなく、作品の解釈やそれを伝える指導力、また生徒の目線で相談しやすく、受け止めてくれるような包容力もあるのではないかと思います。知識や技能を超えて、人間性までをも言い始めると、人それぞれという議論に陥りやすいですが、しかし、結局は、人となりこそがその場の雰囲気のベースとなることは否定できないのではないでしょうか。加えて、知識や技能に基づく的確な指導と、コンクール等における外部評価も総合して、教師と生徒との間に確かな信頼が構築されていくのではないかと思います。このような人となりや信頼の構築も、教師の力として捉えておきたいです。
よびごえのみなさんが、大学生のうちにできることは、まずは「発声に関する確かな知識と技能を学ぶこと」、そして「1曲でも多く、様々な合唱曲をしっかりと勉強・演奏すること」だと思います。それは声楽が専攻であるかどうかを抜きにして考える必要があります。なぜなら、これからみなさんが未来に出会うであろう児童・生徒からすると、みなさんが何専攻だろうが関係ないからです。先生は先生なのです。
最後になりますが、この日誌を書いている僕が、いま強く感じていることは「責任」です。冗談でなく、いつかこの先、「昔の人は部活で合唱やってたらしいよ」という時代がやってくるのではないかと危惧しています。そもそもの日本国の人口減少問題もありますが、おそらくコロナや部活動の地域移行の影響を大きく受けた合唱人口の減少があり、1980年代ごろから今日に至るまで、合唱界は、大規模から中規模、小規模へと、どんどん縮小してきた歩みがあります。コンクールの是非が議論としてあるのはいったん横に置いたとして、コンクールが成り立たないほどに日本国における合唱分野の縮小が起きたとき、そのあとは急速に合唱分野はかつての活気を失っていくことになろうと思います。そんな未来が来ないと良いなと思いますが、30年後(2054年)、というリアルな数字もざっくりと頭には浮かんでいます(よびごえのメンバーは、まだ現役で働いているはずですね)。
そこで考えなければいけないのは、「合唱は生徒の何を育てていたのか」という、合唱の教育としての価値(意義)なのだと思います。合唱という活動の価値を整理し、説明・説得できなければ、守る必要のない活動になるため、社会の流れに従って、自然消滅することになるでしょう。
今回訪問をお許しくださった高校の生徒さんを見ると、合唱をしたからこそ開発された知識や技能、態度は、非常に多くあったのではないかと考えています。それが、将来どのように活かされ、接続されるのかということはいったん横に置いて考えるのが良いと思いますが(なぜなら来るべき将来で求められる力は常に変化しているから)、「合唱を通して何が育ったのか」、この問いを持ちながら、今日の見学を振り返ってもらった時、みなさんの頭には何が思い浮かぶのでしょうか。またぜひ教えてください。
東京学芸大学で学んだみなさんが、これからの日本国の合唱と教育の最先端に立ち、全国の児童・生徒と、価値ある合唱活動をしていってほしい、そうしたみなさんの学びを支え、応援することが僕の仕事ですし、責任でもあると思っています。これは、とてもとても重い仕事ですが、これからの日本国の合唱と教育を考えたときに、ものすごく大切な仕事だと思っています。
そんなことを言いつつも、どうか引き続き、気を張らずにのびのびと合唱と教育を学んでいってもらえればと思いますが、「合唱を通して人を育てること」を、みなさんとの実践を通して、もっと一緒に考えていけると嬉しいなと思っています。
今日一日、本当にお疲れさまでした。
また後期に元気にお会いしましょう!